小说的资料家纹篇
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见闻诸家纹(注:又名东山殿御纹帐。室町八代将军足利义政撰) 其之壱: 二引両、五七桐 源姓。八幡太郎。童名不动丸。或源太。従四位下。陆奥守。号金伽罗殿。镇守府将军。後冷泉院依勅。父頼义随兵。奥州之****贞任诛。其弟宗任为降人。攻戦间九ケ年。其後藤武衡家衡与攻戦事三ケ年。康平治暦。其间十二年也。合戦讨胜。首级得一万五千余天喜中上洛。为褒美依勅命。五七桐纹免许。故当家御纹。五七桐。二引両云々。桐者根本安家之纹也。八幡殿贞任御退治以後。御上洛之时。依被望申下赐此桐纹云々。 其之弐 一姓 吉良。义氏之次男义継。号东条。三男长氏。号西条。 渋川。泰氏之次男义顕之孙。 石桥。泰氏の嫡流。自五世孙和义号石桥。 以上三家。号下马衆。 斯波。泰氏孙家氏次男宗家。号斯波。 细川。义実次男义季。号细川。 畠山。义兼嫡子义纯。号畠山。义兼者义清弟也。 以上三管领也。 上野。泰氏四男义有。号上野。 一色。泰氏五男宫内卿法印公深。一色之祖也。 山名。重国嫡男重村。号山名。 新田。重国次男义俊。大嶋。鸟山祖也。三男义兼。号新田。 大舘。义兼四世孙基氏弟家氏。号大舘。 仁木。义実嫡子実国号仁木。 今川。吉良西条长氏次男国氏。号今川。 桃井。义兼三男义胤。号桃井。此义兼者非新田义兼。矢田判官义清之舎弟也。 吉见。义朝五男范頼子法师范円。吉见祖。 其之参 桔梗。但幕者无纹水色。 土岐。頼光四世孙国房之末。国房者頼政之叔父也。童名文珠丸。正四位下。摂津守。镇守府将军。土岐氏。本出干源姓。故其为纹者。一変白色。乃以为水色。昔时唯用焉。是又所以贵其先也。後也有野戦时。取桔梗花挿干其胄以大得利窝矣、因为之例。逐置之水色之中。以为之定纹也。然不记其年月又其不知何人始为之也。源頼光为纹。末裔用之。故不得坚取其説。暂依其所闻。以书写而已。 松皮菱 武田。頼义男新罗三郎义光の末孙也。従四位下。伊予守镇守府将军。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州****頼时攻。是时诣住吉社。新平复夷贼。干时有神托。赐旗一流。铠一领。昔神功皇后征三韩用也。神功皇后铠脇楯者。住吉之御子香良大明神之铠袖也。此裙之纹。割菱也。三韩皈国後。镇座於摂津国住吉。以奉纳干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼义赐之。可谓希代也。頼义三男新罗三郎义光虽为季子。依父钟爱伝之。即旗楯无是也。旗者白地无纹。铠有松皮菱。故义光末裔当家为纹。 其之四 唐花菱 田大膳大夫贤信 类従本では割菱も并载されている。(注:此即着名的武田菱) 云に左三つ巴。 奉公一番衆曽我 二つ引両に左三つ巴 具平源氏。赤松兵部少辅政则 四つ目结 宇多源氏。佐々木大膳入道生観(注:京极氏、六角氏之祖) 七宝に花菱 云州佐々木凡此轮违也。塩冶 扬羽蝶 伊势平氏。関 (注:其后皆样式,计四十七张,九十四页。其书极简,其事亦远,故略,改列江户之式) 【三ッ叶葵】 本来は京都贺茂神社の神纹。『见闻诸家纹』では、丹波国船井郡の豪族西田氏が用いている。室町幕府八代将军のころには、まだ徳川氏の家纹として表われていない。西田氏の场合は、古く丹波地方に贺茂信仰が萌していたことによるらしい。デザインはリアルな二叶立葵。三河地方の土豪松平、伊奈氏など周辺豪族をふくめて家纹の発达をみるのは、加茂郡そのものが奈良朝期すでに神戸があったからで、贺茂信仰が古くから盛んであったことによる。つまり、氏子豪族の表示。徳川家特有纹となるのは、庆长十六年以降のこと。 【抱き稲】 『长仓追罚记』によると、熊野の神官铃木氏が用いている。宇多源氏を称した亀井氏(津和野藩主家)は、纪州熊野の穂积氏の出自よいわれる。 【平井桁】 『文正记』には甲斐氏がみえ、『见闻诸家纹』では石井长井氏がみえる。一般に広く知られているのは、远江から出て彦根藩主となった井伊氏。いずれにしても井の字を、书き文字か図案化したもので、指示的性格をもつ。戦场で旗指物にした场合、一目了然で分かりやすかったのであろう。 【繋ぎ马】 『见闻诸家纹』では、贽川氏や平野氏の「放れ马」がみえる。平将门の後裔とする相马氏は、下総の相马から出て陆奥の相马郡へ本拠を移し、马の饲育放牧を司った。「繋ぎ马」を家纹に用いている。 【梅鉢】 前田家一族の纹章として広く知られている。素型は六曜星纹から天神纹へ変わり、利家の晩年顷に轴付きの梅鉢纹が生まれている。三代利常に及んで、本支を明らかにするため剣梅鉢、丁字梅鉢などと多様化した。大和の筒井氏も天神信仰により梅鉢纹を使用。 【丸に三つ鳞】 鎌仓幕府执事権北条氏の家纹として有名。戦国以前、早くも『蒙古袭来絵词』のなかに鳞纹は现われている。前北条氏の灭亡後、伊势新九郎が小田原に入り、北条早云を名乗る。以後、後北条氏一族の家纹として袭用、さらに拡充をみる。 【立ち沢泻】 『见闻诸家纹』には越中松仓城主の椎名氏が用いたとみえている。豊臣秀吉の马标が有名。木下氏の出自だったからといわれる。木下の亲族福岛正则も立ち沢泻を用いた。このほk、大名家としては毛利、水野、土井、浅野、奥平、酒井氏その他が使用している。中国の戦国武将毛利元就が敌を追って川辺に至ったとき、水际に生えていた沢泻にカゲロウが止まっているのを见、「胜ち草に胜ち虫あり」と全军を励まし大胜を収めた话は有名。 【梶の叶】 诹访明神の神纹として有名。『羽継原合戦记』では、信州诹访付近の豪族下条、山辺氏らがみえる。神官の出自をもつ梶、神、祝、金刺、矢守、茅野氏など、いずれも梶の叶纹。大祝の出自をもつ诹访氏は、上原城にあったが武田信玄の攻撃を受け灭亡。のち一族が徳川氏に谊を通じて诹访高岛城へ返り咲く。所领三万七千石。 【丸に三つ叶柏】 『见闻诸家纹』には、热田大宫司の千秋氏をはじめ、宗像大宫司氏郷、神谷、雀部、尾林、竹内、山内、水原、朝日氏などがみえる。山内氏の场合、一豊の父盛豊は织田氏に仕え、丹波の合戦のとき柏の枝を旗指物にして奋戦。胜利したとき枝に残った叶が三枚だけだった。よって三つ叶柏を家纹にしたと『土佐山内系図』に伝えているが、事実は山内一门の柏纹ははるかに古い。足利义満と远祖山内猪右卫门が戦ったとき、すでに柏の指物があったと『别本山内系図』に伝えている。また、奥羽の葛西一族も三つ叶柏纹を使用。 【酢浆草】 『见闻诸家纹』には、小田又次郎知宪、肥田助太郎政秀、中沢、多贺、赤田、平尾。长宗我部氏がみえる。三つ叶の间に剣を配した武家好みのデザイン「剣酢浆草」はこのあと、戦国期に入ってからであろう。徳川氏関系の戦国大名では酒井、森川氏などがある。 【丸に唐花菱】 『相国寺供养记』には、武田信在が红直垂に违い菱の缝い纹をつけていたとある。『长仓追罚记』には、大内介が唐菱。甲斐武田と若狭の守护は武田菱。菱鹤は南部纹。坂西は丸に松川菱。赤沢は松皮菱に十文字。远州の小笠原も松皮菱などとみえ、武田一门がベースとなっている。『见闻诸家纹』には武田氏の松皮菱、唐花菱。小笠原氏の三阶菱。大内氏の唐花菱。秋山氏の松皮菱などがみえる。 【一つ远雁】 『见闻诸家纹』では、井上右京亮贞忠の二つ远雁。违い远雁が小串氏、进藤氏、阿波の大西氏。菊水に二つ远雁が大芋氏。笹竜胆に二つ远雁が和州の越智氏。丸に三つ远雁が高宫氏。カコの内一つ远雁が高安河内入道永隆と饭尾左卫门大夫之种。『永仓追罚记』には、远雁金は安部殿。水に雁は小串五郎とある。信州では、滋野氏の流れを汲む海野、望月、祢津、真田氏らが雁纹。また同じ信州で、このほか井上、赤井、上林、山口氏らが同纹である。 【桔梗】 「土岐の桔梗一揆」といわれるように、桔梗のシンボルのもとに団结した土岐氏一族は美浓に威势を振るった。『见闻诸家纹』でも土岐氏の存在が明らかである。织田信长を倒した明智光秀、秀吉に忠节を尽くした加藤清正などいずれも土岐氏族と伝えられる。また、相模の太田氏は多田氏族の出自をもつが桔梗纹。太田道灌が有名。末裔の重正のとき家康に仕え、のち远江挂川五万二千石。 【丸に抱き杏叶】 『见闻诸家纹』では、大友豊後守亲繁、摂津修理大夫之亲、田村氏、安芸の毛利氏(替纹)、饭河远江守、崎和筑前守などが抱き杏叶纹。近江の目贺田氏が三つ盛杏叶。芸州の厳岛氏、大野氏、温科氏などが杏叶九曜。大友氏は相模出身の豊後守护だが、一族や有力家臣にも与えて同纹の衆として优遇した。立花氏も大友一族として同纹。元亀元年龙造寺氏が大友宗麟を破り杏叶纹を家纹とする。のち、龙造寺氏を断絶させて杏叶纹を夺ったのは重臣锅岛氏。 【五七の桐】 足利尊氏が後醍醐天皇から下赐されて以来、足利幕府は一族の吉良氏、一色氏をはじめ、管料の畠山、细川氏をはじめ勲功のあった三好义长、松永久秀、上杉谦信、大友宗麟らに下赐。最後の将军足利义昭も前例にならって、织田信长へ与え、信长もまた秀吉家康らに与えて优越感にひたる。今日の勲章にも似た価値観があったものか。 【军配団扇】 『见闻诸家纹』では、粟生田次郎左卫门尉経行、矢岛、真下、富田氏らがみえている。これらはいずれも武蔵を中心とする児玉党の出自をもつ。三河出身とする奥平氏も児玉党といい、军配団扇纹。 【洲浜】 『长仓追罚记』には、常陆の宇都宫氏族の小田の大辅の名がみえ、『见闻诸家纹』には、安芸の宍戸氏をはじめ陶山氏、越智氏族の寺町氏や伊庭氏、茨木氏がみえる。云州佐々木の吉田氏は三つ盛洲浜纹。松代の真田氏も一つ洲浜纹。 【违い鹰の羽】 『见闻诸家纹』では、栏干丸に鹰の羽の町野左近将监敏康、并び鹰の羽の菊池氏。违い鹰の羽の後藤左京亮、抱き鹰の羽に二つ引両は美马氏、三本鹰の羽の稲毛氏。摂州の太田氏は一つ引両に违い鹰の羽、加州の仓光氏は五本鹰の羽、中村氏は丸轮に违い鹰の羽、福井氏は违い鹰の羽がみえる。『长仓追罚记』は菊池氏だけ。戦国末期に土岐氏族の浅野氏が违い鹰の羽を用いた。 【竹に雀】 『见闻诸家纹』では、竹の丸に亀甲の朝仓下野守、三本竹の粟饭原氏、竹の丸に雀の上杉氏箸尾藤徳丸、违い竹の河村氏、竹の丸に桐は明石越前守上神氏大鸟氏などがみえる。竹に雀纹は、上杉氏から长尾氏伊达氏へと伝わっていった。その伊达氏はまた最上氏へと分譲している。
【橘】 『见闻诸家纹』のころ(応仁末年=1468~文明二年=1470までの间に成立)では、武家の间に多くみあたらない。薬师寺扫部助元隆の三つ橘纹と小寺藤兵卫尉の三つ橘に藤巴が记载されている。戦国末期に台头する井伊氏の橘が有名。また山中鹿介も橘纹をしようしていた。 【丸に茑】 椎名氏、富田氏などのほか、高安河内入道永隆の纹が『见闻诸家纹』にみえる。戦国末期に台头した六郷氏や藤堂氏が茑纹を用い、徳川一族の松平诸家のほとんどが茑纹。しかし、応仁の乱直前のころの合戦をモデルに书かれた『永仓追罚记』には茑纹がない。従来、茑は葡萄の叶から考え付いたのではないかというが、それはおかしい。理由がわからない。ひとつの私见としてあげれば、足利氏の桐纹の下赐が、次第に直接的ではなく、多くは赔臣的立场への派生を帯び、そのまた家来へと枝条的となっていったため、桐纹泛滥を避けるデザイン的知恵が生まれたのではないだろうか。つまり至尊をはばかり、桐纹の下部の叶だけを残し、上の花を除いてその部分を叶に変えれば、桐纹が一転して茑の纹となる。まだ花咲かぬという谦譲の精神をこめ、末梢的系谱の人々へ与えたのではないだろうか。 【鹤の丸】 『见闻诸家纹』では、楢叶左京亮の対い立鹤、佐脇五郎明房の云月に舞鹤、波々伯部彦次郎贤豊の松喰い鹤、大和氏远江の蒲生氏の二つ引両に対い立鹤、石川氏の飞び鹤がみえる。『永仓追罚记』には高井左卫门尉の松に鹤、南部氏の菱鹤、近江御门の後裔葛山备中の庵の内対い鹤などがある。戦国末期には、诹访氏や森氏の鹤の丸などがある。 【三つ巴】 古代に海の彼方から渡来したデザインである。『见闻诸家纹』には、曽我氏の云に左三つ巴、赤松兵部少辅の二つ引両に左三つ巴、宇都宫氏の右巴、小山氏の左巴、杉原氏の角巴、香河五郎次郎和景越後の长尾氏の九曜巴、山田道祖千代丸の鳞巴、丸豊前七郎朝达の三つ盛巴、芝山三河守持嗣の三つ积み巴、山下左京亮の桝形に右三つ巴、金山氏の一つ引両に并び巴がみえる。その他、厳岛大野温科氏らの替纹として右三つ巴がある。武神として尊敬を集めた八幡宫の神纹であった巴纹は、武家社会で人気があったことはいうまでもない。 【丸の内二つ引両】 二つ引両は足利氏の代表纹。引両纹は幕纹からの転移といわれるが、その起源については明らかではない。『见闻诸家纹』によると、吉良、渋川、石桥、斯波、细川、畠山、上野、一色、山名、新田、大馆、仁木、今川、桃井、吉见氏ら一族や阁僚メンバーがみえるほか、他纹と组み合わせたものに、赤松、三浦介、远山、富永、长野、庄、吉川、波多野、神保、三渊、蜷川、川原、中沢、饭川、安木、大和、绮(Kawata)、黒坂、平尾、金山、物部、矶谷、三木、西面氏などの武将にみえる。 【下り藤の丸】 藤原庶流を名乗る武将の家纹である。加藤、佐藤。斎藤、近藤、首藤、进藤、武藤、尾藤、後藤…など庶流が用いた。『见闻诸家纹』では、讃岐の大野氏、摂津の伊丹氏、河内の由佐氏、美浓の伊贺氏、播磨の小寺氏、近江の箕浦氏などがみえる。『永仓追罚记』では、越中の神保氏、三河の铃木氏その他がある。 【三つ星に一文字】 三つ星は大将军星左右将军星の三つを指すので三武、武神としての信仰がある。一文字はカツと発音するので武威をシンボル化して造成された。『见闻诸家纹』では、本郷氏、渡辺氏、飨庭氏。一文字三つ星は、长井毛利竹藤萩绮氏。三つ星に吉の字は毛利氏。三つ星に一文字は、渡辺曽祢崎氏が用いた。 【隅立て四つ目结】 近江の佐々木一族の代表家纹として有名。『见闻诸家纹』では、佐々木大膳大夫入道生観の四つ目结。二松饭田氏の三つ目结。本庄氏の九つ目结、武藤左京亮信用が寄挂り目结、椎屋氏が四つ目结、本间氏が十六目结、能势氏が丸に十二目结纹とある。なお、佐々木氏の流れといわれる宇多源氏の武将京极建部亀井氏らも四つ目结。近江を出自とする尼子氏が七つ割り平四つ目结。越中の佐々氏は滋目结を用いた。 【织田木瓜】 もともとは海の彼方から渡来した贵族纹だが、武家社会に広く普及した。织田信长の家纹として有名だが、もとは朝仓氏の陪臣的家系だった。したがって朝仓氏も同纹。『见闻诸家纹』では、木瓜に二つ引両の富永氏、六つ木瓜の尾张守政长の被官游佐河内守、二つ木瓜に庵の海老名与七政贞、并び木瓜の岩城中务丞宗直、五つ木瓜の宫氏、大平氏。さらに、四つ木瓜の八木氏、大田垣氏、池田充正。三つ盛木瓜に二つ引両の三木氏などがみえる。 文中にひいた『见闻诸家纹』は、一名を「东山殿御纹帐」ともいわれる通り、室町幕府八代将军足利义政の顷の将军家を初めとして、守护大名から国人层に至るまでの诸家二百六十ほどを次第不同に収録したもので、武家家纹の研究には欠かせない史料としてつとに有名である。 また、『永仓追罚记』は『羽継原合戦记』ともよばれたもの。これの原典となる『永仓状』には家纹のことは记されていないという。しかし、纹章武将名についてみるとき、『见闻诸家纹』に比べて劣ることは否めないが、内容的に大过がないのではないかと考え、暂定的参考书にとりあげた。